箕子朝鮮

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箕子朝鮮
殷 不明 - 不明 馬韓
衛氏朝鮮
首都 不明
国王
xxxx年 - xxxx年 箕子
変遷
不明 xxxx年xx月xx日
箕子朝鮮
箕子朝鮮
各種表記
ハングル 기자조선
漢字 箕子朝鮮
発音 キジャジョソ
日本語読み: きしちょうせん
RR式 Gija Joseon
MR式 Kicha Chosŏn
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箕子
朝鮮歷史
朝鮮の歴史
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698
-926
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-935

百済

892
-936
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901
-918
女真
統一
王朝
高麗 918-
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近代 日本統治時代の朝鮮 1910-1945
現代 朝鮮人民共和国 1945
連合軍軍政期 1945-1948
アメリカ占領区 ソビエト占領区
北朝鮮人民委員会
大韓民国
1948-
朝鮮民主主義
人民共和国

1948-
Portal:朝鮮

箕子朝鮮(きしちょうせん)は、中国最後の王である帝辛(紂王)の親族である箕子が朝鮮に開いたとされる国家。先行する檀君朝鮮、後代の衛氏朝鮮とともにいわゆる古朝鮮の1つに数えられる[1][2]。歴史学的には代(前206年-後220年)に楽浪郡を始めとした朝鮮半島の領域(漢四郡)に移住した漢人たちによって造作された神話・伝承であり、史実ではないとするのが一般的である[1]

歴史

史記』によれば、始祖の箕子(胥余)は中国王朝28代文丁の子で、太師となるに及び、甥の帝辛(紂王)の暴政を諌めた賢人であった。殷の滅亡後、武王は箕子を崇めて家臣とせず、朝鮮に封じた。朝鮮侯箕子は殷の遺民を率いて東方へ赴き、礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め、また犯禁八条を実施して民を教化したので、理想的な社会が保たれたという。

「朝鮮」について記す『史記』等の中国史料は古朝鮮(実際に存在したとすれば)より遥か後世の文献であり、箕子朝鮮の実在や箕子が国を開いたことを確証するような同時代史料は存在しない。『史記』の記述から漢代までには箕子朝鮮の伝承が形成されていたことがわかり[2]、一説では前漢代に行われた武帝による朝鮮の征服とその後の漢四郡楽浪郡真番郡臨屯郡玄菟郡)設置を契機にこの伝承が形成されたともいわれる[1]。このような史料的状況のため、その歴史や実像を知ることもほとんど不可能である。

現代の中国北京遼西地方から「其」「㠱侯」という銘がある青銅器が発見されていることから、これを箕子朝鮮と結びつけて考える説もある[3][注釈 1]。これらの青銅器は西周初という箕子朝鮮に対応する時代のものであるから、何らかの関連性が存在する可能性を否定することはできないが、しかしこれらがそのまま箕子朝鮮の領域を示すものと判断することもできない[3]

前4世紀から前3世紀にかけて、現代の北京周辺を拠点としたが勢力を拡大した時代、その東側に「朝鮮」という名前で呼ばれる勢力が存在したことは確かであるが、この「朝鮮」の王が箕子の末裔であるという事実も認められない[5]

『史記』を中心とした古代の文献によれば、前漢成立間もない前2世紀初頭に燕の人、(衛満)が政争からの安全を求めて徒党を引き連れて朝鮮にわたり国を建設したとされる(衛氏朝鮮)。伝説によれば衛満は朝鮮王準に仕えて信頼を得たが、漢から国を守るためと偽って逆に朝鮮王準を打ち倒し、敗れた準はの地に逃れて韓王を称するようになったという[5]。仮に朝鮮王準が箕子の末裔だとすれば、これが箕子朝鮮の滅亡となるが、それも詳らかではない。朝鮮王準が韓王となったとする説話は『史記』よりも後世に作られた『魏略』にのみ見られるもので、現代では朝鮮半島に定着した韓氏が自分たちの出自を朝鮮王と関連付けるべく創作した神話であるとされる[6]

このように箕子朝鮮はその建国から滅亡に至るまで伝説に包まれており、その実像は知れない。しかし、後世には箕子朝鮮の伝説は朝鮮半島に興った国々や、そこに住む人々の自意識に大きな影響を与えた。1392年に高麗に代わって朝鮮王朝(李氏朝鮮)が建設された際、国号を決めるにあたって新王朝は「朝鮮」と「和寧」という二つの国号案をに提示し裁可を仰いだ[7]。これは当初より「朝鮮」が選択されることを前提とした提案であったが、側としては洪武帝を箕子を朝鮮王に封じた偉大な周の武王に擬するものであり[8]、朝鮮側としては東方の夷狄の中にあって初めて「天命」を受けた檀君と「教化」を興した箕子の国である「朝鮮」という国号を採用することで、古朝鮮という古の権威を継承するものであった[9]。これは高麗が高句麗の後継であることに支配の正当性を求めていた(さらに高句麗を介して楽浪郡、古朝鮮にその権威の根源を設定していた)ことから、「朝鮮」という国号の採用によって高麗よりもより直接的に古朝鮮の権威と結びつくことを意図したものであった[8]

脚注

注釈

  1. ^ 1955年遼寧省凌源市海島営子村の村民である唐永興と張懐仁によって、殷周時代青銅器16点が発掘された。現在青銅器は、遼寧省博物館中国語版に所蔵されている。青銅器の特徴は、同時期の殷周の青銅器と酷似しており、この時期の中国東北部ではこのレベルの青銅器を鋳造できなかったことから、遼西周辺に殷人が移住したと考えられる[4]1973年春、遼寧省カラチン左翼モンゴル族自治県北洞村考古学者が発掘した青銅器の方鼎には「㠱侯」と銘文されていた。殷代甲骨文字卜辞に「㠱侯、王其」の文字があることから、「㠱」とは「箕」のことであることがわかる。すなわち、「箕侯」の意味を持つ「{㠱侯」と方鼎に銘文されていた。また、河南省安陽市で出土した「父己」の方鼎と形状が酷似していることから、殷末から周初にかけての方鼎であることも確認された[4]

出典

  1. ^ a b c 朝鮮史研究入門 2011, p. 33
  2. ^ a b 田中 2000, pp. 26, 29
  3. ^ a b 田中 2000, p. 29
  4. ^ a b 張哲俊『韓國壇君神話研究』北京大学出版社、2013年8月1日、121-124頁。ISBN 9787301231180 
  5. ^ a b 田中 2000, p. 30
  6. ^ 田中 2000, p. 31
  7. ^ 矢木 2008, p. 42
  8. ^ a b 矢木 2008, p. 44
  9. ^ 矢木 2008, p. 45

参考文献

関連項目

先代
朝鮮の歴史
? - 前194年
次代
衛氏朝鮮